#3 平和について思うこと

株式会社情景、代表の村井勘彌です。

気分の浮き沈みが保てている時は、月1回くらいは何か書けたらいいなとか思っていて、進めていることは色々あるんだけど、今はこれ以外書く気になれなかったので、平和について思うことを少し書こうと思う。

約束を守らなかった方が悪いのか、先に手を出した方が悪いのか。

平和の方法をまとめて学校かなにかで教えればいいのにとか思うけど、結局、多数決か独断で正義やルールを定義して、それが保てそうにない時は「意地悪や無視」か「暴言や暴力」、悲しいけどこのどちらかを選ばないと守りきれない時は必ずある。自分はそのどちらも一切しないと言う人も居るだろうけど、厳密に言うともうひとつだけある。それは無責任。

あと「全員がこういう考えになれば平和なのに」とかいう見方もあるかもしれないけど、全員が同じ考えであり続けることは、平和が永遠に続くことよりもよっぽど難易度が高く非現実なことだろう。

攻撃をする国の責任者を批判する気持ちはもちろんわかるけど、あなたはこの世界の歴史を背負って、その国のトップに立てるんですか?と言われて、それがイエスじゃないなら、結局それってプロ野球を見て下手くそって叫んでる大人と同じなんじゃないかって、よく思うんだ。

多分、学校で平和を教えたとしても、幼少期の自分のような無責任な生徒に「生きる為に他の生き物を殺して食べる、悪いことをしたら塀の中に閉じ込めてひどい場合は殺す、いってることとやってることがおかしい」とか言われてしまうんだろうな。

もちろん、争いが起きてしまった今は、小さくともそれぞれのできることをする以外にないんだろうけど、でもやっぱり、どうすればこうならなかったんだろうとか、どうすれば抜本的に起きなくできるんだろうとかは考えてしまうし、考えるべきだとも思う。

ただ、現実は、考えない方が幸せな事、知らない方が幸せな事、気付かない方が幸せな事、今も答えが見つからないことや説明しきれないこと、思考を深めると矛盾に気づくだけのことが沢山で、仮に正解があったとしても、正しい行動をとれば必ず幸福に繋がるとは全く言えない。ワクチンの検証を人間でやるわけにはいかないのは悲しくても事実だろう。

結局、自分のようにニュース等を見ていても無力で、その中のなにかの責任を負うこともできないような人間は、優しさって何かを考えるのが優しさ、平和って何かを考えるのが平和に繋がるみたいな言い訳と「自分にできる範囲のこと」みたいな、都合良く範囲を限定するようなことしか言えないけど、責任を負う立場に立っていたら、そんな参加賞みたいなことを言っている場合ではないし、むしろ常に誰にも出来ない範囲のことを中心に責任を負い、それに対して試行錯誤し続けているのだろう。

どうしても違和感や矛盾を残す結論しかないから、学校では平和を実現する方法ではなく歴史のような結果を教えることしかできないだろうし、答えがないから今も世界は困っているのだろうけど、なんか「被害者の気持ちを考えること」よりも、「加害者の立場に立って考えること」や「その上で自分の無力さを知ること」って、平和の為に大切なことなんじゃないかなっていつも思うんだ。

実際、集団の中で「責任を持つ人への否定を無責任に叫ぶ声」が、責任を負っている人の行動を不必要に制限したり、その立場に立つ要件として、知性や人間性よりも「鈍感さ」を重要とさせていたり、その結果、双方にとって不利益で不毛な進化を繰り返しているケースは多々あるように思う。

仮に優れた力強いリーダーであっても、必ずどこかに限界はあり、いつかは壊れてしまう。自分にはできない立場を担ってくれていたり、代表者を買って出てくれていたり、他の期待の中で選出された雲の上のような人も、自分と同じ人間だから。

もちろん、悲しい思いをしている国の人が居るからって、世界の皆が引きこもって暗くなればいいという話でもないと思うから、いつも通りの日常を過ごし、身近な人の幸せを守る事もひとつの責任なんだと思うけど、なにも触れずに別のことを話せる気はしなかった。

全然上手くはできないけど、無力ながらも、間違いながらも、不器用ながらも、常に平和を思考の中心に置き、試行錯誤の上で今日まで生きてきたから。

皆さんに素敵な日々が1日でも多く続きますように。
情報と感情で創る景色、株式会社情景、どうぞよろしく。

村井 勘彌