#5 商標登録はじめました

株式会社情景、代表の村井勘彌です。

先日、会社名の「情景」、英社名の「joukei」、Webサービスの「doukei」、あと昔個人事業でやっていてコロナ前までは会社設立直後に始める予定だったアパレル「cuthe」、この4つの商標登録をした。

商標登録をする時は、直接かITサービスを通して弁理士さんに依頼する人が大半だと思うけど、今回は出願予定の名称と区分の数が多く、外部に依頼すると結構なコストがかかってしまいそうだったので、特別資格がないとできないものでもなさそうだし、知りたい気持ちもあるので弁理士さんには依頼せず自社でやることにした。

出願の手続 | 経済産業省 特許庁
特許庁の説明ページを開いただけで心が折れそうになる。とりあえず、出願方法は紙と電子出願があり普段なら電子出願を選ぶけど、2019年9月6日に目黒区目黒で資本金96万96株電話番号末尾96で創業している僕は「出願日を2021年9月6日にしたい」というかなりどうでもよく、とても大切な理由があった為、確実に日付を狙って窓口で相談しながら進められそうな紙の出願を選んだ。

電子出願ソフトサポートサイト(電子証明書の準備:手続者が法人の場合) | 経済産業省 特許庁
ちなみに電子出願を仮に選んだとしてもWebからできるわけではなくパソコンにインストールするタイプのソフトが必要で、さらに出願には「有料の電子証明書の発行」が必要らしく、ソフトはMac版が少し前に廃止になりWindows版しかなく、こっちはこっちで諸々大変そうだった。

出願から権利消滅まで(PDF:513KB) | 経済産業省 特許庁
出願から登録までのフローは複雑かつ1年くらいかかるみたいで、既に出願予定の名称をサービスで使っているなど、急ぎの場合は「早期審査依頼」というのがあり、審査を通れば3ヶ月くらいで登録できる可能性があるらしい。

願書、申請書の作成方法(PDF:625KB) | 経済産業省 特許庁
早期審査の手続(PDF:540KB) | 経済産業省 特許庁
というわけで、特許庁のサイトから「商標登録願」と「早期審査に関する事情説明書」のテンプレートをダウンロードして記入し、出願日の数日前に一度伺い確認を終えた上で、出願予定日当日の2021年9月6日に改めて伺い出願を終えた。

ちなみに出願してから気付いたが、紙で出願した場合、紙をデジタル化にする為に「電子化手数料」というのが1件1,200円、1枚あたり700円かかり、期間も1ヶ月必要らしい。なので早期審査依頼が通っても最短4ヶ月になってしまうし、結局、電子証明書と同じかそれ以上のコストがかかってしまう。デジタルを紙にして提出して、その紙をデジタルにするのが有料という大分不思議な状態になっているようだ。

いつも思うけど、もし人生が何度かあるなら、こういう国が運営している機関のDX化を主導したりとかもやってみたいな。ただ、人生は一度しかないみたいだ。

というわけで、4ヶ月〜半年かけて、下記「第25類のアパレル」と「第45類のWebサービス」の2つの区分で、4つの名称の商標登録が完了した。


「情景」株式会社情景 登録6491529(商願2021-115804)特許情報プラットフォームPlatPat


「joukei」株式会社情景 登録6491530(商願2021-115805)特許情報プラットフォームPlatPat


「cuthe」株式会社情景 登録6491531(商願2021-115807)特許情報プラットフォームPlatPat


「doukei」株式会社情景 登録6517728(商願2021-115806)特許情報プラットフォームPlatPat

上記のリンクの「経過情報」を押すと経過が全て確認できるけど「doukei」のみ、似た名称があるという理由で一度拒否になってしまい「意見書」というのを追加で提出した。最終的には通せたけど、結果的にこの「意見書」が一番大変だったように思う。

他の3つは9月6日申請、12月24日登録と良い日付になったが「doukei」のみ登録が2月24日にずれてしまった。ただ、意見書は大抵通らないみたいなので結果としては上出来だろう。更新も期限の半年前から可能なようなので、2ヶ月のずれは許容範囲だろう。
さっきの「経過情報」から僕が書いた意見書の内容そのものも一般公開されているようなので、弁理士さんを通さずにやるか迷っている方は、参考に見てみて判断すると良いかも知れない。

税理士さんへの手数料がないので、自分で通せたならコストはかなり抑えられるけど、実際、通らなかったらただただ無駄なコストになってしまうし、やってみた感じ自分でやるのは、正直あまりおすすめはしない。

総額はまとめると以下のような形だけど、もちろん稼働してる分を含むと作業として数日分のコストも掛かっていることになるので、そのあたりも含めて外部に依頼するか決めると良いかも知れない。
(出願料3,400円 + 2区分 × 8,600円 + 出願電子化1,200円 + 700円 × 1枚 + 早期審査電子化1,200円 + 2枚 × 700円 + 登録28,200 × 2区分) × 4件 + 意見書電子化1,200円 + 2枚 × 700円 = 328,600円

ちなみに権利の独占ももちろんだけど、商標登録したかった一番の理由は、昔から「ロゴ」が大好きで、この®が入ってるロゴがデザイン的に好きだったから取りたかったんだ。これで心置きなく色々作れる。

皆さんに素敵な日々が1日でも多く続きますように。
情報と感情で創る景色、株式会社情景、どうぞよろしく。

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#4 メタバースはじめました

株式会社情景、代表の村井勘彌です。

今回は、株式会社情景で複数進めているプロジェクトのひとつ、メタバースについて少し触れたいと思う。

突然、メタバースと言ってもわからない人も居ると思うので簡単に説明すると、最近Facebook社がMeta社に社名変更したりで話題になっていたけど、メタバースというのはアバターを使って参加する3D仮想空間のことで、Meta社のMetaQuest2(旧:OculusQuest2)などVRヘッドセットというゴーグル型のデバイスで動くサービスや、ChromeやSafariなどWebブラウザ上で動くサービス、WindowsやMac上のアプリで動くサービス、iPhoneやAndroid等スマートフォンアプリで動くサービス、またはその中の複数のプラットフォームを跨いで動くサービスなどがあり、有名なサービスでいうと、海外ではVRChat、TheSandbox、Decentraland等、日本だとCluster等がある。

サービスによっては、より繊細な動作を表現する為にVRヘッドセットとゲーミングPCという特殊なハイスペックPCの両方がないと動かないものもあったり、アバターに関してはサービスを跨いで共通で使えたりもする。サービス毎にデザイン性や機能に特色があり、イベント開催やコミュニケーションなどソーシャルに向いてるサービスや、GameとFinanceをくっつけてGameFiと呼ばれているゲームで仮想通貨のトークンが稼げるサービスや、NFTと言われるバーチャルな物や土地が買えるサービスなど様々ある。

今後、各サービスがどういう進化を遂げてどういう棲み分けになって、どこが頭角を表すかは今はまだわからないし、株式会社情景としてどこのサービスをメインとして進めるかはまだ未定だけど、基本的に今挙げたあたりのサービスは、どこに公開する場合でも「Unity」というゲーム開発プラットフォームで開発するのは共通みたいなので、一旦は個人的にビジュアルのクオリティが一番高いと感じる日本製のClusterに、株式会社情景のコンセプト画像をモチーフとした「ワールド」と呼ばれるオリジナルの空間を開発してみた。

動画のはじめに映っているのがUnityで、その後アバターが動いているのが開発したものを適用したCluster上の株式会社情景のワールドで、アバターはREALITYというClusterが提携している別サービスのものを使っている。まだ山の土台があるくらいでなにもないが、このワールドは既に公開しているので下記から入ろうと思えば入れる。

株式会社情景 - joukei,inc.|メタバースプラットフォーム cluster(クラスター)

Clusterは、ソーシャル要素が中心のサービスで、ゲーム要素やお金の概念はあまりなく、一応外部で購入したアバターを身につけたりはできるくらいの立ち位置なんだけど、提携してるREALITYのアバターを使っているユーザーが多いこともあってか見た目のクオリティが高く、とりあえずやってみようとする時にやる気がでやすい。やっぱりこのあたりは日本人のセンスなのかな。単純な好みかもしれないが、TheSandBoxやDecentralandの海外アニメっぽさみたいなのが個人的に少し気になってしまう。今はデフォルトや提携しているサービスのアバターを使う人が多いが、オリジナルのアバターを使う人が増えたら、サービスの印象も変わってくるのかも知れない。あと、海外でまだリリースされていないが、EVERDOMEという実写さながらのメタバースがあって、それが気になっている。

ClusterやREALITYは日本製というのも応援したくなるし、こんな素敵なサービスを作ってくれて、他愛もないことを楽しめない僕に夢を与えてくれて、きっかけを与えてくれて心から感謝がある。そう言えば、ついこの前、自分も前職で登壇させてもらったことがあるDeveloperSummitというITカンファレンスに、Clusterの代表の方が登壇されていたので申し込んだが、満席で見れなくて残念だった。もともとDeveloperSummitは録画配信もないし、その回はプレゼンというよりトーク中心で後日の資料公開もなかったので気になる。

とりあえず、おおよその構造や開発難易度を把握するくらいは触ったので、一旦、他のプロジェクトを優先するかもしれないし、Cluster以外の場所じゃないと実現できないこともあると思うのでClusterに限定した話ではないけど、株式会社情景のコンセプト画像の様な景色を創り、そこに様々なプロジェクトの空間を作ったり、何かを販売したりできたらいいな。

もともと起業した当初は、他社のIT化やDX化のサポートやシステム開発をするのを収益のメインにしようと営業活動をしていたけど、コロナになって半ば契約を進めていた大手企業のプロジェクトが休止になったり、並行して昔個人事業でやっていたファッションブランドを法人として進めていたけど、関わってた創業メンバーの離脱があったり、他社の開発をやらずにこれを収益のメインとするには芸術性に寄りすぎていたり、諸々考え直すタイミングがあった。

もう一度、本当に創りたい世界や過ごしたい日々や社会貢献を考える中で、システム開発の営業活動を一切やめたり、やめるなら構想しているプロジェクトの中から収益可能性の高いものを優先したり、今の時代との親和性を考えたりする必要もあり、結果的にWebサービス「doukei(doukei.com)」を先にリリースしたり、そうこうしているとYoutuberが当たり前のようにファッションブランドを立ち上げる時代になっていたり、BASEなんかで誰でも簡単にショッピングサイトを作れたり、衣類へのプリントを受注生産で簡単にできるサービスがあったり、どれも素敵なサービスだけどブランド立ち上げのハードルが低くなりすぎて、なにかそれ以外の付加価値や目標を持ってやらない限り、実現することに対する魅力を感じなくなってしまっていた。

基本的に「センスがあれば技術習得不要で完成させられるもの」にあまり魅力を感じないし、それではある程度の人しか魅了させられないような気がするし、やはり何かを創造するには「一定のハードルがあるからこそエモーショナルなんじゃないか」と思う。

ここからのITの世界はWeb3.0と言われていて、ブロックチェーンを中心にメタバースやNFTアートなどの時代になると言われている。このあたりの事もまたいつか話せたらと思うが、またインターネットが広まった頃のような新たな世界が始まりそうで、僕なりの小さな幸せを感じる。

しかし、自分で文章を書いてるくせに、文章を読むのがあまり得意ではないのであまり読み返せない。
少しだけブログらしくなってきたかな。

皆さんに素敵な日々が1日でも多く続きますように。
情報と感情で創る景色、株式会社情景、どうぞよろしく。

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#3 平和について思うこと

株式会社情景、代表の村井勘彌です。

気分の浮き沈みが保てている時は、月1回くらいは何か書けたらいいなとか思っていて、進めていることは色々あるんだけど、今はこれ以外書く気になれなかったので、平和について思うことを少し書こうと思う。

約束を守らなかった方が悪いのか、先に手を出した方が悪いのか。

平和の方法をまとめて学校かなにかで教えればいいのにとか思うけど、結局、多数決か独断で正義やルールを定義して、それが保てそうにない時は「意地悪や無視」か「暴言や暴力」、悲しいけどこのどちらかを選ばないと守りきれない時は必ずある。自分はそのどちらも一切しないと言う人も居るだろうけど、厳密に言うともうひとつだけある。それは無責任。

あと「全員がこういう考えになれば平和なのに」とかいう見方もあるかもしれないけど、全員が同じ考えであり続けることは、平和が永遠に続くことよりもよっぽど難易度が高く非現実なことだろう。

攻撃をする国の責任者を批判する気持ちはもちろんわかるけど、あなたはこの世界の歴史を背負って、その国のトップに立てるんですか?と言われて、それがイエスじゃないなら、結局それってプロ野球を見て下手くそって叫んでる大人と同じなんじゃないかって、よく思うんだ。

多分、学校で平和を教えたとしても、幼少期の自分のような無責任な生徒に「生きる為に他の生き物を殺して食べる、悪いことをしたら塀の中に閉じ込めてひどい場合は殺す、いってることとやってることがおかしい」とか言われてしまうんだろうな。

もちろん、争いが起きてしまった今は、小さくともそれぞれのできることをする以外にないんだろうけど、でもやっぱり、どうすればこうならなかったんだろうとか、どうすれば抜本的に起きなくできるんだろうとかは考えてしまうし、考えるべきだとも思う。

ただ、現実は、考えない方が幸せな事、知らない方が幸せな事、気付かない方が幸せな事、今も答えが見つからないことや説明しきれないこと、思考を深めると矛盾に気づくだけのことが沢山で、仮に正解があったとしても、正しい行動をとれば必ず幸福に繋がるとは全く言えない。ワクチンの検証を人間でやるわけにはいかないのは悲しくても事実だろう。

結局、自分のようにニュース等を見ていても無力で、その中のなにかの責任を負うこともできないような人間は、優しさって何かを考えるのが優しさ、平和って何かを考えるのが平和に繋がるみたいな言い訳と「自分にできる範囲のこと」みたいな、都合良く範囲を限定するようなことしか言えないけど、責任を負う立場に立っていたら、そんな参加賞みたいなことを言っている場合ではないし、むしろ常に誰にも出来ない範囲のことを中心に責任を負い、それに対して試行錯誤し続けているのだろう。

どうしても違和感や矛盾を残す結論しかないから、学校では平和を実現する方法ではなく歴史のような結果を教えることしかできないだろうし、答えがないから今も世界は困っているのだろうけど、なんか「被害者の気持ちを考えること」よりも、「加害者の立場に立って考えること」や「その上で自分の無力さを知ること」って、平和の為に大切なことなんじゃないかなっていつも思うんだ。

実際、集団の中で「責任を持つ人への否定を無責任に叫ぶ声」が、責任を負っている人の行動を不必要に制限したり、その立場に立つ要件として、知性や人間性よりも「鈍感さ」を重要とさせていたり、その結果、双方にとって不利益で不毛な進化を繰り返しているケースは多々あるように思う。

仮に優れた力強いリーダーであっても、必ずどこかに限界はあり、いつかは壊れてしまう。自分にはできない立場を担ってくれていたり、代表者を買って出てくれていたり、他の期待の中で選出された雲の上のような人も、自分と同じ人間だから。

もちろん、悲しい思いをしている国の人が居るからって、世界の皆が引きこもって暗くなればいいという話でもないと思うから、いつも通りの日常を過ごし、身近な人の幸せを守る事もひとつの責任なんだと思うけど、なにも触れずに別のことを話せる気はしなかった。

全然上手くはできないけど、無力ながらも、間違いながらも、不器用ながらも、常に平和を思考の中心に置き、試行錯誤の上で今日まで生きてきたから。

皆さんに素敵な日々が1日でも多く続きますように。
情報と感情で創る景色、株式会社情景、どうぞよろしく。

村井 勘彌

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#2 Webサービスはじめました

株式会社情景、代表の村井勘彌です。

今回は、株式会社情景で運営しているWebサービス「doukei(doukei.com)」について話そうと思う。

サービス説明そのものをする予定はないので、サービスは上記のリンクで確認して欲しい。

「就職」というのは大多数の人にとっては当たり前のことで、夢と仕事をバランス良く重ねられた人にとっては「新たな幕開けを感じさせる素敵な一幕」かもしれないが、一部の人にとっては「人生における大きな敗北」を意味し「死がよぎるくらいの絶望や精神的な苦しみ」を感じる程の事だったりする。

人生とは、生きる意味とは、生きる価値とは、「人」と「日々の過ごし方」と「お金」、多分これが全てだろう。要は「心から愛する人と、心から充実した日々を送り、心から満足する収入がある」、このバランスが幸福度なのかなと思う。死後に残る物と答える人が居るかも知れないが、死後に残る物を生み出すプロセスは今生きる日々の中にある。

要は、ひとりぼっちでやりたくないことを毎日やって1億あっても幸福度はマイナスだし、どれだけ愛する人や充実した毎日を過ごしていても生活する最低限のお金がないと幸福は感じられないし、たったひとりの愛する人と日々の苦労の中でも小さな幸せを感じ、生活できる最低限の収入があれば幸せで、その全てが高い水準で充実していれば宇宙にだって行けるのだろう。

自分は中学しか出ていないので、大多数の人が恐ろしいと感じるような人生を歩んでいるけど、正直、高校に行かないことよりも、皆が大学を卒業して就職している中、そこから本格的に特殊な人生を歩むことの方がよっぽど怖かった。数ある中から音楽をはじめに選んだわけだけど、そんなに音楽的な能力が高くない自分や仲間と収益を得る為には「平均年齢何歳というブランディング」と「実能力より斬新さやセンスで魅せるタイプのジャンル」と「それ中心の生活」が必須だと感じていた。

後先考えず一生突き進めるような根っからクレイジーな芸能気質なタイプの仲間ではなかったし、4年制の大学を現役で卒業する年齢くらいまでには最低限の結果を出す必要があると思っていた。もちろん、若くから活動すればするほど、そこまでの猶予期間は長くなる。

その「最低限の結果」とは具体的になにかというと、「20歳前後で20万前後の月収」というかなり現実的なものだった。

そう、悲しいけど思考の中心にあるのは、いつも「お金」だ。
子供心を持ったまま生きられる環境を作ろうとすればするほど大人の知識を得る必要があり、お金を意識したくないと思えば思うほどお金の知識を人一倍得る事になる。

「本当に好き」とは、お金を意識せず活動する人のことを言うのか、それで生計を立てようとする人のことをいうのかはわからないけど、自分は後者寄りだと思う。もちろん両面あるとは思うけど「生計を立てることを目指さない収益性の低い音楽」は別に10代や20代じゃなくとも、いつだってできるから。あと「やりたいことをやること」より「やりたくないことをやらないこと」の方が基本的に人生では難しい。やりたくないことをやらない為には、やりたいことを収益化する事が人生において必須となってしまう。

僕は、幼馴染の仲間と音楽で生計を立て、不特定多数の人が認知できるメディアに出て、幼少期の自分のような上手く生きられない人に手を伸ばしたかった。自慢だって言い訳だってしようと思えばできるだろうけど、自分の能力や努力でそれを実現することはできなかった。前例のない全く新しいことをやりたかったということも大きいけど、自分の場合、ひとりでやることや気の知れていない人とやることは就職するよりも辛いと感じていたことが、大きなボトルネックになっていた様に思う。

「それはひとりで歩めない、ひとりで戦えない弱さだ」と言われると、なにも異論はない。これは、ひとりで戦えない僕という人間の弱さだ。それが論理的に分解できて「営業力、強調性、管理力が低い」と思えるまでには、もう少し時間がかかった。

ちなみに、今の人には理解しづらいかもしれないけど、これはまだインターネットが普及していない時代の話なので、ここまでに登場したメディアとは「テレビと雑誌」この2つがほぼ全てだ。20代前半で初めてパソコンを手にして、新たなメディアとなるインターネットの自由さに魅了され、デザインやWebやプログラミングに触れて世界は変わった。もう一度、根っこから全ての価値基準を考え直す事になったと言っても過言ではない。

魅了されたのは「誰でも不特定多数に配信できること」ももちろんだが、それよりもこのインターネットというものが「組織や誰かが管理するもの」ではなく「オープンなもの」ということだろう。「テレビや雑誌」と違って、誰かやどこかに載せていただく必要も出させていただく必要も理解を得る必要もない。

結局、20代半ばまではバンドのメンバーを探しつつ、バイトでやっていた肉体労働の下請けを個人でやってみたり、パソコンでWebサイトや音楽やデザインを作ってみたり、個人で服のブランドをやってネットショップで販売したり、様々なバランスの中で成立させようと試行錯誤していた。ちなみに、FacebookやTwitterやInstagramなどSNSが浸透したのはそれから数年後で、YoutuberやTikTokが浸透したのはそこから10年以上先で、BASEなんかでネットショップが簡単に作れて個人でのD2Cのビジネスが常識化したり、フリーランスという言葉が一般化したり、クラウドファンディングや投げ銭の文化が浸透し始めたのは、もうここ数年の話だろう。

結局、最後は理想と自分の能力の間で精神的に追い詰められて就職を選ばざるを得ない形になっただけだけど、そのIT活性化の時代をIT起業の正社員として過ごし、そのまま普通になれたらよかったんだけど、やっぱり上手く出来なくて、起業している。働いている間にも世界や常識はどんどん変化し、見失いかけた未来が自分のスキルアップと思考の展開と時代の変化により、また繋がりはじめた。もはや今は自由どころかITサービスが法律の前を歩いていると言っても過言ではない。

ただ、逆に言うと根っこの自分自身は、それでもなにも変わらなかったとも言えるだろう。

もう物心ついたときから、ずっと考えている。生きる意味とは価値とは、学校とは、就職とは、会社とは、お金とは、売れるとは、稼ぐとは、ビジネスとは、責任とは、常識とは、正しさとは、優しさとは、思いやりとは、この毎日は一体なんなんだって。

その中で、このサービスを作るに至った経験が大きく4つある。

1つ目は、表現し続けたい自分と、それを見続けたい人数百人程度では、その場所を守り続けることはできなかったということ

2つ目は、自分好みの音楽はフリーターの収入で買えても、同じセンスで選ぶ服や画家の絵は到底手が出せない価格であったということ

3つ目は、夢を追うことに比べて自由こそないが、会社員として働く事はフリーターの何倍も簡単で心と時間とお金の余裕があるということ

4つ目は、お金を生む為には、営業力と強調性と管理力の3つが必須で、他が長けていてもそれが欠落していると成立しないということ

あえて5つ目を言うとしたら「その現実に対して、どうしても納得ができなかった」ということだと思う。

もしかしたら、このサービスの実現が自分の過去に対する最大の言い訳なのかもしれない。世の中に絶望しても「創る」という選択肢だけは一応残されているみたいだ。そもそも、今あるものだって今ある常識だってだれかが作ったものだろう。

そもそも需要と供給は成立していたのかもしれない。ツアーに全箇所来てくれて同じCDを毎回何枚も買ってくれるお客さんも居たけど、僕はなんだか申し訳なくなって買ってもらうのを止めてしまった。今一番欲しいものは何かと聞かれたので冗談抜きで活動の為のお金だと答えたら、次のライブで大金を持ってきてくれたお客さんも居た。なぜ受け取らなかったと言われるとはっきりとは答えられないけど、受け取ることはできなかったし、受け取るべきでもなかったと思う。

正社員になって、正直これまで自由にやってきたツケが周ってくるのだろうと思っていたが全くそんなことはなかった。もちろん、周りの方の力あってのことだけど、フリーターの頃に想像していた何倍も楽な気持ちで時間もお金もあり、その状況になるともっと仕事を頑張って貰った以上の結果を返そうと思うし、プライベートで使うお金に関しても「Youtubeで聞ける音楽だけど活動を続けてほしいから音源を買っておこうかな」というような気持ちになったもりする。ずっとジュース1本を買うことすら迷うような人生だったので、この生活を一度しないとこの感覚には気付かなかったように思う。

就職さえすれば、ほぼ当たり前の様にもらえる月20万円程のお金が、バンド活動で得ようと思うと多少テレビに出るくらいまで上り詰めないと実現しない。結局それをビジネスとして成立させる為に賢く折り合いをつけた結果が、高額の絵画やハイブランドの設定する価格やブランディングや、その定義によって生み出した常識なんじゃないかと思う。最近は、ライブ後にファンと有料の写真撮影などをするみたいだけど、それも何度も並んで写真より支援を目的とする人が居るようで、結局CDの大量購入と同様の違和感が残る。

この「違和感」は「間違っている」という意味ではなく、思いは動いているのに成立させる仕組みや常識が足りていない気がするという「違和感」だろう。

ただ、一方で会社員になってからフリーターの自分は舐めていたと感じる部分もある。会社に入ると、物を売るためには営業やマーケティング専門の部隊があり「やりたいことかどうか」なんてことを言ってる余裕はないほど「どうすれば売れるか」の一点集中で朝から晩まで試行錯誤の上で行動している人達が居る。細かく数値管理し、積極的に外部との関わりを持ち、内部の人をマネージメントして、製造に対する思い入れと同等か、それ以上に「売ること」に思考を巡らせている。そこで下げたくない頭を下げる格好悪さと共に、下げたくない頭を下げる格好良さも目の当たりにした様に思う。実際、奇抜なアーティストの鏡のようなピカソはビジネスの天才だったという話がある。

要は、他が長けていて熱狂的な支持者が居ても、営業力が低く、強調性が低く、管理力がないから食べていけない。そういうことなんだろう。ただのいい人では成立しない。あと何か集中的に常識を逸脱して長けている人は、基本的に「営業力が低く、強調性が低く、管理力がない」ようにも思う。だから、会社や事務所が存在するんだって言って終わりたい所だけど、事務所に所属できる時点である程度、強調性はあるように思う。だったら、そういう世界だ仕方ないと思いたいが、それでは困る。僕はそういう繊細で不器用なアーティストが大好きだから。

僕もみんなと同じ世界の上で生まれ育ったけど、気付いたらどこにも所属していないバンドのデモテープや自主制作のCDばかり聞いていた。周囲の音楽好きも皆同様にマイナーバンドに魅了されていたように思う。幼少期の頃からなので、特別な拘りや考えを持って選んでいたわけでもなく本能的に魅了されていたから、多分僕は根っからそういう人の熱狂的支持者なんだろう。あの粗さと攻撃性と純粋さと夢と絶望が交錯したようなヒリヒリした音と言葉が大好きだ。こんな過酷な環境の中、なんとか僕の耳まで届いてくれて、生き死にや苦しみや孤独を歌い叫び、常識を逸脱する独特の世界観を持つアーティストに、僕は命を救われたから。

基本的に売れるというのは多数の指示を集めるということになるが、もちろん多数決と優秀は関係ないし、優秀と言われる人は上位5%くらいなので、その優秀な人達に愛される物を作れば作るほど全体の支持率が下がるという矛盾が起き、価格で差を付けたり何かしら特別な要素がない限り成立しなくなる。そして、そこが改善されない状況が続いてしまう原因は「当人も周囲もその改善に没頭するような人になる事を望んでいない」という点にあると思う。むしろ純粋にやっている姿が好きだから。

ただ、それだと「そんな人を目指していない、そんな人になってほしくない、そんな人の傘下に入ってほしくない、でもそれでは成立しない、辞めてしまった、会えなくなった」みたいな、どうも悲しい状況が続いてしまう。

要は、表現者目線で自責的に考えると「営業力が低く、強調性が低く、管理力がない」が原因だけど、無理やり環境目線で自責的に考えると「物販とは別途、少数でも活動を支えられる方法が用意されていて、支持される人と支持する人以外の交流や強調性が不要で、お金の管理が簡単」そういう環境が存在しない事が原因で、これを成立させるプラットフォームが用意できれば、その人達が変わらなくても成立させられるのかもしれない。不得意な部分は出来るだけシステムが代わりにやればいい。

良し悪しの前に存在しないことが気になる点で、まずは存在させることに意味がある。また、最初に構想していた頃は、まさか世界がこんなことになるとは思ってもいなかったけど、コロナの影響を見て、よりそういう基盤の必要性を感じ、準備していた事業の優先順位を変更してリリースを早めた。

もちろん、世界の誰も思いつかないなんてことはないので、近しい発想でサービスを始めた人は居るだろうし、失敗もあっただろう。存在しない理由は、おそらくシンプルに採算が合わない事と、利益が得られなくても続けるようなお人好しは居ないという事と、仮にそんなお人好しな人や企業があったとしても実現する技術と経験を持っている可能性は低いという事だと思う。実際、法律の面で見ても技術の面で見ても、お人好しだけで簡単に実現し、維持し続けられる類のサービスではない。もちろん、趣味ではないのでビジネスとしても成立させるつもりでやっているし、すでにある程度運営した上で、最低限成立したのでこの文章を書いている。

そもそもの発想や仕様が異なるというのもあるかもしれないが、自分には大きく他を圧倒できる要素がいくつかある。1つ目はそもそも思いが乗っているので収益のみを考えてやっているわけではないし、無責任な意味での「仕事」としてやっているわけではないということ。2つ目は、僕がセルフプロデュースでバンド活動をしてた経験と個人でアパレルブランドのD2Cをしていた経験とシステム開発会社でM&Aされた経験とスタートアップの企業で一部上場した経験があり、その全ての世界を自分なりの視点で必死で考え抜いて見てきた知見とプロとしてのプログラミングとサーバー構築の技術を持ち、その経験と技術とセンスを駆使して頑張れば、自社サービスのデザインやマーケティングくらいはなんとかできそうで、それに目が覚めている時間の全てを掛ける覚悟は出来ているということ。

多分このあたりがひとりの人に共存しているケースは、かなり稀なように思う。この全ての要素を使えば、サービスを圧倒的にコストをかけることなく構築でき、圧倒的にフットワーク軽く速く改良し続けることができる。

おすすめしたようになってしまうのも問題があるので、一応言っておくと、この類のことをしようと思うなら多分やめておいた方がいい。スキルがないならもちろんやめておいた方がいいし、仮にそれだけのスキルや外注する費用があるなら、こんな事さえしなければ圧倒的に稼げる方法が山程あるから。

仮に全て内部の人間で実現できたとしても広告費だけは技術力で無くす事はできないので、これだけはシンプルに家が買えるくらいのコストを覚悟する必要がある。ただ、もしこの全てを越える思いがあるというなら友達になりたい。

最後に、経営目線でもユーザー目線でも「なぜよくあるクラウドファンディングや投げ銭サービスのように、利用料ではなく支援額からの手数料にしないのか」と聞かれる事がよくあるので、これも説明しておこうと思う。これには大きく3つ理由がある。

1つ目は、支援のお金からサービスが手数料を取って良い根拠はビジネス的にはあっても、そのお金に乗った思いとしては許される行為ではないということ

2つ目は、ライブハウスや店舗のように環境は表現者側が用意すべきで、本気でない人が平気で混ざらないように最低限のハードルは設ける必要があるということ

3つ目は、ライブハウスのノルマのようにそのハードルを自ら飲めば、誰もが平等に場所を利用することが可能であるということ

正直、支援額からの手数料がサービスを飛躍させる糧となるなら、広く使っていただくことより、どうすれば支援者の多い有名人の方に利用していただくかが考える核となってしまう。それは、サービスを提供する側が儲かる仕組みではあっても、僕が実現したい世界でも、僕が解決したい問題でもない。世界を変えるんだ。

ーーー
数が多くなくとも熱狂的な支持者がいれば成立して良いはず

doukei https://doukei.com/

あの人らしく活動してほしい、頻繁なリリースはなくても良い、​時間がかかっても、最終的にアウトプットにたどり着かなかったとしても、その過程や、活動そのもの、生き方や人生そのものをずっと見ていたい、存在そのものに救われる、上手く活動できない期間も応援したい、納得が行くまで妥協しないでほしい、ずっとそのままで居てほしい、夢を追っていてほしい、それでも生きていてほしい、そんな心の支えになるような大切な人はいませんか。

「doukei」は、そういう思いを実現するために作られました。

「数」より『質』で「物」より『人』に支援する時代
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基本的には、どなたでも使える無料プロフィールサイトなので、もしよろしければご登録、およびSNSでの共有などしていただけるとうれしいです。

あと、支援を受けつける機能もまずは無料で試せるので、なにかしらの活動をされている方は、ぜひ一度お試しください。やってみないとわからないし、もしかしたら気付いていないだけで熱狂的な支持者がいるかもしれません。

今後は、より機械が肩代わりしてくれて、労働の必要性も販売の必要性も下がってくるから、物販中心ではなく思いを中心にお金が動く時代がくるような気がするんだ。

皆さんに素敵な日々が1日でも多く続きますように。
情報と感情で創る景色、株式会社情景、どうぞよろしく。

村井 勘彌

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#1 ブログはじめました

株式会社情景、代表の村井勘彌です。

今日、2021年12月28日で40歳になりました。
皆さん毎日楽しいですか。僕は楽しくないです。

人生のどこを切り取ってもあまり元気はないので相変わらずという感じかもしれないけど、とてもネガティブな状況かと言われると、よく40歳まで生きてたねという感じかと思うので、基準がどこかという話ではある。

自分のことを、この文章で初めて知る人もいれば、アルバイトをしながらバンドやブランドをやっていた人と思う人もいれば、開発会社やサービス企業でエンジニア兼マネージャーをやっていたと思う人もいれば、経営者だと思っている人もいれば、Webサービスの発案者だと思っている人もいれば、その日々の途中で出会い、その後なにをしているかは知らないという人もいるだろうし、自由に発言できない場所で出会い、こんな人だったんだと初めて知る人もいるかも知れない。

基本的になにを考えているかわからないと言われる方なので、色々聞かれはするんだけど、さほど興味があるわけじゃない人もいるだろうし、思考の深さや経験、理解力や精神レベルなどによって必要な説明量も変わってくるし、自分の感じた幸せが皆の幸せだと信じてやまない人や、皆が自分中心に生きていると信じてやまない人や、他者も自分に近い感覚や価値観の上で生きてると信じてやまない人もいるし、同調が欲しいだけだったり、思い通りに動いてほしいだけで話を聞きたいと思っているわけではない人もいれば、言葉や行為に対して無条件によくない事と決め付けてしまっている人もいるし、なかなか聞かれた所で安易に説明するのも難しかったりする。

特別わかってもらいたい気持ちもないので、まぁ、その解釈でいいかと思って説明を終えてしまうことが多いけど、一方的に書く文章なら読むも読まないも自由だしアウトプットしてみようと思う。

実際、日常会話で回答に許されている尺なんてそんなに長くはないし、だったら、こうやってアウトプットすればいいのかというと、この「思ったことを自由に発言できる状況」を持つこと自体、実はなかなか今の社会では難しく、なにかを捨てたり、なにかを掴んだり、ある程度の覚悟を越えた特殊な人生を歩んでいないと、得られないものだったりする。

特別なにか輝かしい報告があるわけでもないけど、ちょうど40歳なので、現時点で思うことみたいなのを書いてみようと思う。もしかしたら、個の考えが他の否定に聞こえる言い回しがあるかもしれないけど、色んな人が居て、それぞれの正解の中で好きに生きれば良いと思うし、僕が一般的な正解である可能性はない。ただ、もし一部の変わった人のなにか参考になることがあったりしたら、それはうれしいかな。

あまり心が安定せず、だれとも連絡をとっていないけど、多分、あなたが僕のことを嫌いな可能性はあっても、僕はあなたのことを嫌いではないので、もし気になっていたら安心してください。いつも連絡薄くてごめんなさい。この人生のどこかで出会い、僕が上手く関われず傷つけてしまった人だったらごめんなさい。なにか気になってこの文章を読むことになってくれたなら心からありがとう。もし、僕が昔居たシーンや組織の人だったら、自分が距離を置いてしまう理由は、思いが深すぎて感情の折り合いが今もつかないってだけなので、申し訳ない気持ちでいっぱいです。いつも声を掛けてくれてありがとう。

でも、もし、この日々の中で傷つけてしまった人が居たとしても「そこまで本気の思いがあったのなら」と思える振る舞いをし続ける事は、関わった人の自己否定にはならず、あの人が異常だったんだと思わせられる最低限の償いになるのかなと思います。

どうしても全員助けたかったり、どうしても全部は掴めない無力な時があったり、どうしても言えないことがあったり、怒ってでも伝えたい未来があったり、僕の能力では通常通りの対応で乗り越える方法がなかった時はあるけど、多分、その瞬間の出来事を僕は今も忘れていないし、遠い昔の事であってもあの時どうすればよかったかは今も考えています。ただただ、無力だっただけなのに、後から謝ったり、罪を緩和させる説明をしたりすることすらもズルいと思っている所があって、上手くいかなかったなら、自分がその嫌悪感や否定を一心に受け取るべきだと思ってる所がある。

ただ、一方で、自分がこうやってなんでも自責的に考え、人を悪く思わないから、人に悪く思われることを想定するのが苦手なんじゃないかと思う時はよくある。

一応、僕は今も夢を忘れたわけでも、見失ったわけでも、諦めたわけでも、逃げたわけでもなく、なにも変わらず夢の途中に居ます。なので大人になったり月日を重ねたことで思い出話の様に話すことは今もできないし、もしかしたら永遠に話せないかも知れない。もしなにかを達成した所で「大したことじゃなかった、簡単だった、またつまらなくなった」と永遠に思ってしまうだけなので、自分の場合「なにかを目指してる途中の状態」が「夢が叶っている状態」なんだと思う。

僕の夢は、ずっと変わらない。「自分のような人に手を伸ばせるようになること」。ただ、それは「希望の塊」かと言われると「絶望の塊」と言った方が近い気はする。「夢」と表現すると綺麗なものだけど、正確に言うと「生きる意味が感じられない人の言い訳」というか「折り合いをつけた」というか「死ぬわけにもいかないから無理やりひねり出した人生の目的」という感じかと思う。

あんまり言うべきではないけど、より本音っぽい言葉でいうと「なんで生きてるんだろう、この毎日になんの意味があるのだろう、死ぬのも大変だしなにかしないといけない、生きるにはお金が必要なのか、やりたいことなんかない、だれか助けて、誰も居ない、自分がなろう」といった感じかと思う。

夢の途中と言っても、想像される感じの諦めない強さや、前を向く強さや、負けずに戦い続けるような力強いものは持っておらず「諦められない弱さ、諦める怖さ、失う怖さを強く持っている」と表現した方が実態に近い。それがないと何もなくなってしまいそうというか、目標なく生きる方法を多分僕は知らない。もちろん弱いままで良いとは思っていないので、強くありたいという気持ちはあるけど、今の所、かろうじて生きている僕の毎日を、素直に表現するとそういう感じだ。

正直、漠然と自分には40歳なんてこないんじゃないかなって思ってた。一方で、その年齢に辿り着けるのであれば、どこかで突然変異して普通の幸せな家庭を持ったりして、自分以外の未来や他愛もない日々を笑っているんじゃないかと思っていたけど、あいにくそのどちらでもない。

一般的に「通常を0として100にする事」を夢と表現するのだとしたら、自分は「通常が-100で0にする事」を夢と表現してしまっているのかもしれない。「逃げたわけでもなく」と表現したけど「夢を諦めるという行為から今日も逃げている」と表現すべきかもしれない。自分自身でもまさか、今も夢の途中というか、その「-100〜0の間の苦しみの中」というか、その絶望の中でぎりぎり生きている感覚が今日まで続いているとは思わなかった。もしかしたら、皆さんから見える暗い-50の世界は、僕が-100から必死で50上がった「夢のような-50の世界」なのかもしれない。

多分、始めは幼少期の「この毎日は一体なんなんだろう」という感覚から始まっているように思う。物心付いた頃には、朝起きて毎日同じ場所に向かい、同じ年齢の同じ様な格好をした人たちが集まっていて、特定の大人の指示のもと決められたことをする毎日。掛け算を呪文の様な言い方で言わされたりする行為や、なんの疑問も持たず、それを黙々とやる周囲にカルト教団を見るような違和感を持っていた。

本来、選んだわけではない場所に突然連れてこられて、選んだわけでもない行為を集団で毎日やらされると、大半が拒否反応を示す事が自然のように感じるが、そんな事を考えている人は見当たらず、少し声を上げるとそんな事を言っている自分が特殊のような扱いで、「なぜやるのか」の説明は受けられず、いつだって「なぜやらないのか」を問い詰められることしかなかった。

いつからだろうと考えても、そうでない時間の記憶がないので「物心付いた時から」と思っているが、両親に言わせると物心付く前から嫌がっていたみたいだから、自分が思っているよりも「思考」というより「本能」に近い部分で、なにかズレみたいな物があるのかも知れない。

仮にそう思ったとしても「嫌なことはやらなければいい」わけだが、知っての通りそれは許されていない。

「この毎日は断れない、国が決めた義務である」

なんか、このあたりから苦しみに変わり始めたんじゃないかな。断れない状況である事に気づくと「そもそも、どういう経緯でそうなったのか」を考えるけど、別に国が国民に拷問を敷いているわけではなく、この先の人生が困らないようにする為の義務教育である。義務である理由は「お金を稼げる状態にしてあげないと困るから」という思いやりや優しさであり、もっと元を辿ると、

「この世界は、お金がないと食べれなくて、寝る場所も確保できない」

という状態がベースにある。一部、生まれた時点で一生分のお金がある人も居るだろうけど、あいにく、そういう生まれでもない。このあたりから「一番意識したくない物がお金」で「一番考えている物がお金」という矛盾の毎日になったような気がする。そうなると嫌でも「今後どうするか」を考えるざるを得ないけど、冷静に考えると実はさほど選択肢はない。

・学生生活を続け、その経歴を持ち、どこかに勤めて生活する
・スポーツで全国のトップクラスに入りそれで生活する
・芸術や芸能で全国のトップクラスに入りそれで生活する
・暴力団や刑務所に入るなど法に反して生活する
・後先考えず家に居て生活する
・死ぬ

幼少期に思いつくレベルでは、正直、大きくこの6つくらいしかないけど、後半の3つは選択肢とは到底言えないような内容なので、ほぼ3つだろう。実際はそれ以外もあるんだけど、それ以外が具体的に選択肢としてイメージできるようになるのは、義務教育を終えてからかな。少なくとも自分の知性ではそうだった。ただ、それでも増えるのは「個人事業、経営、投資」あとは「生活保護」多分これくらいじゃないかな。

ちなみに変に共感される時があるのでいっておくと、こんなんだからといって、とくに学校教育やサラリーマンに対する否定や反発を持っていたりはしない。よくある満員電車に揺られる人を否定する話は、がんばっている人の事を外野が自分の立ち位置を示す為だけに否定しているような気がしてあまり好きではないし、むしろ僕はそういう大多数の人の感覚や人生に憧れている。

あまり自分が思ったことに対して、自分が正しい、皆そうすべきだ、という感覚も持っていないので、自分が正しいと叫び、他の承認を得たいと思うような感情も、わかってもらいたいというような気持ちもない。その場に居たくない事や、やりたくないことは沢山あるけど、だからといって、その場にいる人が間違っているとも、変わってもらいたいとも思うことはない。正解が多数決ならシンプルに不正解は自分だ。もしそれを責められるなら心から申し訳ない。僕もみんなと同じがよかったし、そんなみんなが心からうらやましい。

ただ、集団の中にいる時は「もし同じ様に思う人が居たら同じだと気付いてもらえるような振る舞いをしよう」とは強く思う。「嫌がる人が多いことは正しくないこと」という多数決的な考えで生きている人にとっては大分謎な行動だろうし、組織などで意識統一したい人にとっては、それが迷惑な振る舞いでしかないことは自覚している。そもそも、そういう振る舞いを「自分の作った場所」ではない所でやっている事自体、間違いなので、その分、人の倍の成果を出すようにはしているけど、だからといって人は相殺して捉えてくれたりはしない。結果はいいけど惜しい人と思う人が大半だろう。

また、上の立場になることや勝ちたい気持ちがあまりなく平等を望んでいるとしても、実際、平等を選んだり、上下関係を無くしたり、新たなルールを生み出し形成できるのは上に立つ人だけだから、結果的にリーダー肌ではなくとも勝ち気でなくとも、なにかを守りたかったり誰かを守りたかったら上を目指さざるを得ないときは度々ある。

その中で精神的な痛みを強く感じたり、耐えられずのたうち回る事はあるけど、病院や薬に助けてもらおうと思ったことはないし、友人や異性と会うことで忘れたり、お酒を飲んで忘れたりするようなこともあまり好きではないし、それで忘れられるレベルの思いではない。テレビやゲームのような気付いたら時間が過ぎているものもあまり好きではないし、写真で見れる建造物をあえて時間やお金を掛けて実物を見に行きたいとも思わない。多分、やれば多少気持ちが緩和させられるんだと思うけど、痛み止めでしかないというか、永遠には続かないような気がして、取り返しのつかない時間を消費してしまっている気分になる。いつか、そんな他愛もない日々を笑えるようになりたい。

あと、脳が一般的な発達を遂げてるかはわからないが何かの診断を受けたこともないし、仮に何かそういう定義された特異性が自分にあったとしても、それに気付けたことでほっとしたり楽になるような感情もない。幼少期の家庭環境が複雑でもなければ、生まれた事を恨んでもないし、両親は世界で一番優しい人だと思ってる。なにかを恨む気持ちもあまり他者や自己を否定する気持ちもない。この全ては「ただの事実」だ。

あえていうなら、こんな世界で生きる中でも自分が自分であり自分の環境で育ったことは、かろうじてありがたいというか恵まれているというか良かったと思っている方だと思う。ただ、それも「否定という活力あふれる行為ができるほど元気がない」というだけかも知れないのでわからない。

だったら、明るく生きれたらよかったんだけど、単純に「目の前の事実の把握」と「今後どうするか」を生きる為に必要だから考えているという感じで、もしかしたら、これがネガティブでポジティブで、どちらの人と話しても共感しづらい自分のわけのわからない所かもしれないけど、死ぬほどネガティブに生きる人と同等の「つかれた」と、輝かしいほどポジティブに生きる人と同等の「どうにかしよう」が共存している。「どうしてそんなにがんばれるのか」の理由は、「すごく嫌なことがあるから必死でどうにかしようとしている」ってだけなんだ。なんでそんなに嫌なのかは正直わからない。そもそも自分がなんでここに居るのかだってわかってる人なんて居ないだろう。

それは思考が原因論か目的論かの違いみたいな話があるけど、それを考える行為すらも原因論な気がするというか「今後どうするか」の為に必要な「なぜこうなったのか」を知りたい時はあっても、基本的に「現状把握とどうする」以外に興味がない。ただ、これも効率的な考えとか合理的な考えとかそういった誇れるものではなく「今にも谷底に落ちそうになってる時に、解決の役に立たない原因なんてどうでもいいし、それで安心できるわけもない」というだけな気がする。今にも谷底に落ちそうな人が「そうか自分はみんなと違って谷底に落ちそうだったんだ、知れたことにほっとした」なんてことはないと思う。

こういう感じだと幼少期は学校とかが肌には合わなくて、気付いたら学校の真面目ではない友達と遊ぶ事が多かったり、なんとか光を求めてアンダーグラウンドな音楽のシーンに飛び込んだりもするが、よく聞くサクセスストーリーのように、そこで今まで感じたことのない果てなき自由を感じたりもできていない。結局、そこにはそこのルールがあり先人が居て常識があり、同調があり、上下関係があり、多数決からくる圧力があり、礼儀がある。むしろ「これじゃ学校と同じじゃないか」という気持ちの方が強かったかも知れない。

多分、それは各ジャンルの音楽シーンも、企業も、芸能界も、あまり知らないがおそらく暴走族でも、ギャングでも、チーマーでも、暴力団でも、多分変わらない。真面目に排除された不真面目が、不真面目で集まって真面目を排除してたら、それはただの色違いの同じ行為だろう。絶対Aも絶対Bも全く同じだし、どちらも正しいという意見も大体同じだ。それを言うなら、絶対Aでも、絶対Bでも、どっちも正解でも、どっちも間違いでも、どれでも正しいと言うべきだし、割れてる時点で、別にどれも正しくはない。あなたがそう思うってだけで、あとは正解の定義に多数決を持ってきたってだけだし、割れている状況で考えるべき事は何が正しいかではなく、どうするかだと思う。ただ、冷静に考えると「すでにある特定のシーン」に飛び込んでるんだから、違和感があるのは当然の事である。そこは僕が作った世界ではないから、そこを作った人達の自由であり、その場所への違和感を持つ自分が間違いでしかない。

多分、挨拶があったとかなかったとか、あいつは偉そうだとか偉そうじゃないとか、敬語を使ったか使ってないかとか、先輩だとか後輩だとか、先輩後輩は年齢だとか入った順だとか、腕を組んだとか足を組んだとか、座席が奥か手前かとか、そういった事もだれかが幸せなんだろう。そういう感度が自分には一切ないので、なにが気に入らないのか想像ができず苦手な所がある。こっちの配慮が足りないのか、そっちが苛立ちやすいだけなのかは、ただの多数決だから。そして、大体みんな似たような事を言ってるから、その多数決か声の大きさによって、こっちの配慮が足りないということは確定している。ただ、そうなると最も苛立ちやすい人が、もっとも配慮が上手く、優しい人のようになってしまうけどそれでいいのかな。

結局、音楽をやっていてもレーベルとかに所属するのもあんまりで、自分でフライヤーやCDを作って、ライブハウスやCDショップやデザイナーさんや雑誌社とやり取りしたり、その活動の為にアルバイトをしたりしていると、成人になった頃には、少しだけ芸能界の入り口も見えて、この世界や経済の構造や商流にも多少気づき始め、憧れた人たちも何かしらの傘下に居たり、企業の利益を出す為に契約し、利益を出すためのルーチンの中で活動しているという状況を知った。

意識的に理解している人は少ないかも知れないけど、メジャーになって楽曲の質が変わってくるのは、有名になったからというより、唐突にリリーススパンが短くなるあの現象が原因である可能性は高い様に思う。頻繁なリリースや期限に迫られた作品じゃなくて、頻度は少なくて良いので何度もライブを重ねて試行錯誤の果てに拘り抜いて録音した音源が聞きたい。フルアルバムは曲が多すぎるように思う。ただ、それもビジネスだから。成立させないといけない。

売れるのは一握りというけど、実際、拘りすぎて長期間アルバムを出さないだとか、番組の構成も自分で考えているとか、そんな自由にやれているのは、売れた一握りの人の中でさらにほんの一部なんだと思う。自分は憧れたアーティストの二番煎じになりたかったわけでも、売れればなんでもよかったわけでもなく、その稀なアーティストのように拘りを持って自由に振る舞い、それを一生の仕事にしている姿に憧れていた。

多分、そのクラスになると、センスか、技術か、カリスマ性か、人間性か、容姿か、頭脳か、運か、話術か、人脈かとか、多分もうそういう話ではなく、全てを持っているように思う。それは思っていた以上に、努力とか頑張りとか諦めない気持ちとかそういうので越えられたり、時代の流れで世代交代できるようなものではなかった。

綺麗に耕してもらった道を歩く事に憧れていたわけではないし、同じことをした所で、同じ場所には辿り着かない。今となっては、自分が憧れた人達がどこまで自由だったのかすらわからないが、多分、自分が憧れていたのは「自分が描く理想をゼロから自由に生み出せる場所に立つこと」だったのだろう。ただ、その時、あるものを全てかき集めて、全ての時間をかける覚悟で考えても、そんなことができる力は自分にはなかった。

そして、悲しくも嬉しくも幼少期に憧れた芸能界のスターは、今もなにも変わらず最前線で活躍している。

結局、探しても居場所は見つからない、ゼロから世界を作れる能力もない。20代半ばに近づいた頃には、もう、ただただ耐えられない嫌なことと、自分にはできないことの2つだけがあるような感覚だった。目の前にあるのは汚い扉と重い扉の2つ、重い扉は努力しても開けられない可能性があるけど、汚い扉は我慢すれば開けられる。重い扉を開けようとしないなら汚い扉を開けるしかない。この世界は止まってたら「寝る場所も食べることもできなくなるルール」だから。

はじめての実態把握というか、この世界の仕組みをある程度理解し、色々もがき考えてみたはものの、もうどうしようもなくて、徐々に生活もできなくなっていた僕は、これまでのような「資金目的と割り切った仕事」とかではなく、生まれてはじめて普通に仕事を探すことになった。

そこからは、もう意識朦朧としながら面接を受けて、戦いに破れた武士の様に、髪を切ったり、髭を剃ったりしていたら、なんか気がおかしくなってきていた。音楽やファッションに関わることは好きすぎてできそうになかったのと、かろうじて「株式会社とITシステムの課金部分の構造を知りたい」という思いがあって、プログラミングの仕事を選んだ。こんな自分を受け入れてくれた最高の会社だったと思う。

義務教育を9年間通うのは当たり前で大多数であっても、チームやグループや組織に入って、そこで9年経験がある人というのは大多数ではない。義務教育とは違い「自分で選んだこと」にも関わらず、義務教育のように逃げられない強制されたことでなければ、もっと短期間で辞める人の方が多い。義務教育では出された宿題はやるのに、自分で日々の課題を見つけ前進させることを自らやる人は少ない。学校は宿題があってやるのが当然だったのに、会社で宿題を出したら時間外でパワハラらしい。なかなか理解しづらいバランスだけど、そう考えるとあの拘束の9年は大衆にとってはとても必要なものだったのだろう。大人になって自らやらなくて、もし義務教育もなかったら、なにもやらない人で溢れてしまう。

ただ、多分、僕にとっては「死にもの狂いで掴んだ、たった一つの絶望の淵」かもしれないけど、みんなにとっては「数ある選択の中のひとつ」や「常識の流れの中で偶然通りすがった場所」でしかなかったのだろう。見えてる景色やかける思いが違うんだと思う。僕はいつも必死だから、変に混ざって迷惑を掛けてはいけない。そこは人が作った世界で、僕が作った世界ではないから。

そんな日々を経て、試行錯誤して今日まで生きてきた僕の経歴は、中卒で、元バンドマンで、元ファッションブランドの個人事業主で、元システム開発会社のエンジニアで、その後買収されてスタートアップのベンチャーに転籍して一部上場した企業のエンジニア兼マネージャーで、起業して株式会社情景を設立し、一応会社のキャッシュで回したいから融資は受けたけど、出資は受けていないし売却も上場も目指していないので、スタートアップ風だけどスタートアップではない、Webサービスを開発、運営している会社を経営している。

結果的に、勤め先で得たスキルや経験した事が未来を変える糧にもなっているので、勤めた会社には心から感謝がある。転職は一度もしていないけど、偶然、売却や上場を経験したり、ずっと優しくしてくれた二人の社長に出会ったことは大きい。心から尊敬と憧れがあるけど、その憧れは、その世界に居ることではなく、小さくとも同じ様に自分で世界を作りたかった。だから、わかっていても期待通りに振る舞えず申し訳ない気持ちが沢山ある。

会社は、一応色んな人と一緒にやろうとはしたけど、今は同じ傘の下で一緒に活動している仲間は誰も居なくて、外部で関わるのも税理士事務所の方と問い合わせ対応をお願いしている方くらいで、経営も企画もデザインもプログラミングもサーバーもマーケティングも全て自分でやっている。フリーランスでチームを組んでいるとかですらない。こういう製造に関するスキルは、人と関わる事に比べたら大体なんとかなる。不安に感じるユーザーがいるかも知れないので一応言っておくと、内部のシステムは、技術的にもセキュリティ的にも一部上場企業レベル、またはそれ以上なので安心してほしい。むしろ、クオリティを最大限に突き詰めた結果が今の体制なのかも知れない。

ひとりでやっていると言っても、もう自分は強調性がないからひとりでいいとか、今はフリーランスの時代だからとか、そういう形の自由を望んでいたりとか、ひとりの方が優れたものができるとか、ひとりで生きられる方法みたいなのを見出したとかではなく、会社だけに限らず常にチームでやることを目指して試行錯誤し、結果的に夢を見続けることができなくしてしまったり、魅了し続けることができなかったり、支えになれなかったり、人の気持がわからなかったり、傷つけてしまったり、話を聞いてあげられなかったり、孤独を感じさせてしまったり、期待する環境を用意できなかったり、自分の責任範囲ではどうすることもできなかったり、必死で仲間と過ごす為に数々の失敗を重ねた結果が今であり、今も変わらずチームで何か生み出すことを目指してる。

複数人に拘るのは、寂しいのと自分ひとりでは到達しない可能性を望んでいるのだけど、多分、人生で自分を満足させるだけだったら簡単な気がしてしまうのと、もしかしたら、自分になにもないから、他者の力になることをやりたいことと定義してしまっているだけなのかもしれない。

実際、深い理由など無く本能的にというか単純にある程度の期間で物事を辞める人が多いというのはあると思う。本気で5年とかなにかを続けると、死ぬほど納得いかない事や死ぬほど辛い事は確実に起きるから。前例がないものを目指すのであれば、半年から1年くらいで必ずなにか起きる気がする。なので、ある意味、辞める方が自然で、続けるには思い浅く適当にやるか、不自然な思いというか意思みたいなものを持たないと続けないのかも知れない。時間の密度が濃かったり人数が多くなるとその確率は何乗にも膨れ上がるし、もちろん、やることの成功確率や難易度が上がれば上がる。

ただ、誰でも越えられるならみんな越えてるし、それならもうこの世にあるだろうし、だからそれは世の中には存在しなかったり、それを越えた先にしか見れない景色があったり、だから眩しかったりするのだろう。僕は、社内政治や意識操作に没頭し、人を言葉で操り思い通りに動かすことをスキルとして周りと戦い、自分の琴線に触れさせないことを配慮や礼儀と呼び常識と言って、お金を増やしお酒を飲んで愚痴をこぼして、人より勝った負けたの優越感や劣等感の中、休みが待ち遠しいような毎日ではなく、大好きな仲間と毎日遊び疲れて夢の話をして、生み出したもので出会えなかった不特定の人に幸せを与えて幸せを感じたり、人の思いやりや優しさを感じながら日々を過ごしたい。

その為には、週5日8時間以上働くこの時間を確実にどうにかしなければいけない。週末幸せだったら良いわけではない。僕は週2日生きてるんじゃなくて週7日生きてるから。あまりトップは向いてないけど、会社の場合は、自分がトップである限り自分が辞めなければ存続できる。全くリーダー肌ではないけど一番辞めない人ではあると思う。もちろん、目指すハードルを下げれば、もっと優しく出来たり、穏やかな空気を作ることも出来ただろう。ただ、その景色は、永遠には続かない。それは本当の優しさではない。上手くいかずに離れる事があっても会社が存在さえすれば、また、いつでも戻ってきたらいいしね。

聞こえてるよ、捨てたらその分、結果が得られるのは。知ってるよ、自分と自分の周りくらいなら、それで救えるのは。自分と自分の周りとかいう範囲の区切りなんて、自分がこの世に存在しなければ存在しなかった程度の区切りでしかない。その範囲を越えた不特定多数への発信でないと届かない人達が居る。

「不特定多数への発信」でいうと、遠い昔にすっきりしない形で止まっているのもあって、やっぱり一番よく言われるのは「また音楽やってほしい」なんだけど、自分も一番好きなだけに一番難しい。難しい理由は複数あるけど、元を辿ると理由は結構くだらなくて「自分がベースでカリスマ性のあるボーカルが居てメンバーは幼馴染」これがやりたかったことで、その時のメンツに自信があったんだ。多分、初めてメンバーが抜けた日、僕の夢と音楽を直接重ねる日々は終わってたんだと思う。大人にならないで友達とずっと一緒に居て、音楽で大きな収益を得て、自分のような人に手を伸ばせる人になりたかった。自分の拘りや創造性が大衆の心を掴むとはハナから思っていないので、本当のやりたい事は大金を手にしてからで良いと思っていた。

ただ、メンバーの実力や素養を把握し、実現する為にはどんなジャンルでどんなアプローチでどんな日々を送る必要があるかを考え、動いていたのは自分だけだったのかも知れない。もちろん、その当時のクオリティはひどいものだけど、今でも、あのメンバーでずっと一緒に居たら、なにか大きな成功を掴んでいたような気はする。ただ、大前提として続けないと夢は叶わない。

あと、その前後に親友や親友の家族の死が立て続けにあったりして、もう遠い昔の話だけど、あんまりそのあたりの日々を今も消化できてなくて、ぼーっと生きてる感じがある。若干その前後で性格も変わったように思う。多分、今後永遠にその現実を真に受ける事はできそうにもないし、向き合う気力もないような気がする。家に行って平常心で線香を上げて座ってられるような心の強さが自分にはあんまりなくて、なかなか何十年もたった今も心の折り合いが難しい時がある。また、生命に関わるほどの話ではなくとも、真剣に取り組んだ過去のバンドのメンバーやそのシーンに居た人や過去の職場の人や関係者などの人に会うと、冷静に居られない感覚がある。多分、全てに思いが深すぎて今も消化できていないのだろう。

バンドは最初のメンバーが抜けたりした後も、メンバーチェンジを重ねて、音源を出したりレコ発ツアーに周ったりもしてたけど、もうその辺りで結構限界だった。音源を出して雑誌にバンド紹介や広告を出したりしていると、インタビューの話とかも来たりするんだけど、もう話せる気がしなかった。最初に組んだ時に確信したような理想には、もう届く気配すらなかった。

活動する中で沢山のアーティストにも会ったし、憧れのバンドにも会ったり、バンドが休止した時には沢山のバンドに誘ってもらったけど、イメージできる体制は見つけられなかった。元々宅録は全パート自分で録音してるけど、最悪、ステージでも自分が歌ったりギターを弾いたりしてでも活動できればと考えた時期もあるし、その為にギターを練習したり、練習してて限界が見えたので利き手を入れ替えて左でも練習したりして、自分の能力と周りのアーティストでなんとか実現できる形を見出し、それで生活することを目指せる体制を考えたが難しかった。

あと、活動が止まった後に、すでにあるシーンに参加するのではなく「全く新しいことがしたい、バンドじゃなくシーンを創りたい」と思っていたことがハードルを大きく上げたと思う。そのスタンスでメディアに出たり、生活できるレベルに持っていくのは、僕の能力では難しかった。もしかしたら、生活するレベルでいうと、とくに難しいのはジャンルや技術やセンスよりも、そのハードルの中でも「ずっと一緒に居られる仲間を見つけること」のような気がする。どちらかだけでいいなら居るだろうし、多分、楽曲の限界より人間関係や、それぞれの人生の選択で終わったバンドがほとんどなんじゃないかな。

音楽は常にやりたい気持ちはあるけど、コピーバンドやクオリティを求めないバンドで楽しくやれたりはしないし、今の所、人、時間、資金、全てにおいて折り合いはついてない。それで生活することを目指しているわけではないなら、使える時間は限られているし、音楽活動にはお金があっても時間がなければ実現できない事が沢山ある。でも、なんか音楽だけは、論理ではなく本能的にずっと好きだな。楽器の練習をしている時だけは、嫌なことも全て忘れる。ただ、おそらく「圧倒的に好きすぎるから一番融通が利かない」という最大のデメリットを抱えているのだろう。ただ、今も変わらず、バンドのことは常に考えているし、ずっと練習し続けて曲も創り続けているので、まだ昔話にはなりそうにない。

そういえば、僕が活動している当時はSNSなんていう概念はなかったけど、昔好きだったバンドを思い出して調べていたら、最近は90年代のインディーズを漁っている若者みたいなのが一定層居るみたいで、僕の過去のバンドや音源を、当時生まれてもいないような人達が話題に上げてくれていて、ちょうど辛い時に見つけたのでとても元気をもらえた。ありがとう。

しかし、こんなに世間や常識にフィットしなくて、こんなに何もできないくせに、それをどうにかしようとストイックにやる気持ちだけある人なんて他に存在するのかなとよく不思議に思う。スペックは三流なのに、感じる違和感や思うことだけは一流の人みたいでどうにかならないもんかとよく思う。勉強もできないし身体能力も低いしコミュニケーションも下手だし、何かに自信があるわけじゃなくて、どうしてもできないことが沢山あって、どうにかしようとがんばっているだけだから。多分、いつもそれでもどうにかしようとする気迫で周りを疲れさせてしまっているのだろう。

実際、相手に過度な成果を求めなかったとしても、がんばっている他者が目に映ると悪気を感じたりしてしまう人は多い。それを緩和させる為に、目標設定や成功体験や失敗体験を意図的に用意して意識操作することをマネージメントだとは思ってないし、なにより一度でもそういうアプローチで人に対峙してしまうと、その信用を根っこから取り除く事はもうできないと思う。かといって、最低限の安定もない状況で育成への革新とかをやってる場合でもない。ただ、試行錯誤する日々を送りながらも、やっぱりゼロから世界を作りたいなら、どう考えても今のフェーズは越える必要があって、ぼんやりと今は仲間を探しつつも、この「気迫が必要なフェーズ」だけは、ひとりで越えて、土台を作るしかないような気がしている。安易に稼げても下請けの仕事では本質的に新しい世界を作ることはできないし、自分の手で人を守ることもできない。

ただ、ひとりになってからの時間はすでに結構過ぎていて、やっぱり人が関わる事は精神がかなりすり減ってしまい、一時はどうなることかと思ったけど、最近は少しだけ精神的にも収支的にも抜け出せそうな兆しが見えてきている。もしかしたら、あなたがこれを読んでいる頃、体制は変わっているかもしれない。どれだけ正しい情報かわからないけど、そもそも1年で半分近くの会社が潰れるとか言われていて、さらに創業メンバーが1年残っている会社はほぼないと言われているらしい。

人を抱えても余裕で越えられるくらいの能力があればよかったけど、理想はそんなに低くはないし、巻き込んでしまうのも申し訳ないし、悲しい思いをさせないように行動して、本当の目的の実現をおろそかにしていたらそれは本当の意味での優しさとは言えない。結果が出ればなんでもいいわけではないし、プロセスだけ充実しても意味がない。多分、能力や総力を越えた未来をどうしても実現したいなら、もう削る身は自分だけにした方が良い気がしている。自分が自分に死ぬまでやらせてもパワハラにはならないみたいだから。また、越えたらなにか見えるかも知れないし、越えられないのかも知れないけど、一緒に働くみんなに無理をさせなくて良い環境を用意したい。

ビジネスは今運営しているWebサービス1本で考えているわけではないけど、ITの一般顧客向けのサービスの成功確率なんて多分1%もなくて「ほぼ全て失敗している」と言っても過言ではないレベルだと思う。今年流行った日本製のITサービスより、今年売れた日本のアーティストの方がまだ言える気がするので、見る角度によっては難易度を上げてしまっているのかもしれない。そういう低い確率の事に全てを投げ出してやってみること以外、つまらなさやくだらなさを感じてしまうのかも知れないし、誰かがやっていることでは、自分がこの世に生きる意味を見失ってしまうのかもしれないし、結局そのレベルのハードルを越えないと「自由なんて得られない」という結論なのかもしれない。

もう能力も精神もないんだからやめとけばいいのにと思うけど、多分「ぜひやった方がいい向いてるタイプの人」がそれをやった結果が今ある世界だと思うので、今ある世界に苦しむ人に手を伸ばしたいなら、多分「向いてない誰か」が死にものぐるいで実現するしかないんだと思う。社長らしい社長、経営者らしい経営者、リーダーらしいリーダーでは実現できないサービスや組織があるように思う。それを実現しないと救えない人、行き場をなくす人がいるように思うんだ。

今の自分には良くも悪くも、この文章を見せて問題がないか確認する先や、なにを思われるか不安に思う先はひとつもない。今は自分が作った組織以外のどこにも属していないし、自分が生み出したサービス以外の受託の仕事もしていないし、その一部の製造をどこかに外注しているわけでもないので、どんな発言をしようが、どんな容姿で過ごそうが、なにを目指しなにを大切にしようが自由であり、法律以外の強いられるルールも上下関係も礼儀もなく、ゼロから何かを生み出せる場所に立っている。

自分が自分らしく実現しようとするから難しいんだけど、自分が自分らしいまま実現しないと意味がない。様々な正解をもって生きることで世界は素晴らしくなっていくのかと思うので、それぞれの正しさを掲げて生きれば良いと思うが、自分は行動が全てだとは思わないし、結果が全てだとも思わないし、成長は自己否定だとも思わないし、お金の量や勝ち負けや地位などを成功と定義して生きてるわけでもない。

多分、自分は「前例がないことや自分にしか生み出せないもの」とか「不特定多数への発信」とかに生きる意味や価値を感じていて、「表面上や口先だけではない本当の優しさや思いやり」みたいなものを考え、大切にしていて、あと「ズルいこと」が嫌いなんだと思う。知能をズルに使っていいなら、いくらでも結果は出せそうだしね。不器用なんじゃなくて、その方法で掴んでも意味がないんだ。

でも、優しさや思いやりみたいなものを突き詰めると、常に「悪かったのは全て自分」と自他共に思われるように徹底して行動するような気がするから、多分その人は「皆に愛され優しさや思いやりに溢れる人柄」には見えない気がするし、もしかしたら「常に一番の悪党」に見えるかも知れない。また、革新的なことばかりしていると大衆には常に「いつも見当違いな事をいう人」に見えるかもしれない。そういう人を見極められる人になれたらいいな。

なんとなく、この世界に、とても優しくて思いやりがあって天才的な頭脳と創造性を持つ人が居たとしたら、多分、その人の人生はとても辛く苦しい日々になってしまうんじゃないかと思うんだ。この世界は、そのスタンスで生きられる道を用意してはいないから。

なんとなく、40歳という人生の節目だったので、色々書いてみた。

多分、一部の人しかここまでたどり着いてないだろうな。40歳はもう来ないし、そんな何回も書く文章でもないし、細かく書かないなら書く意味もないし仕方ない。正直、また、なにかの組織に所属して自由に発言できない日が来てしまうかもしれないし、今後、ここに何か書く時があるのかも決めてないけど、この文章を書いても問題ないような毎日に戻れたことに、僕なりの小さい幸せを感じる。この景色を守りたい。続けることが大事。

多分、変わることより上乗せすることより、その途中で変わらず持っておくことの方が何倍も難しい。上手くいかないことがあっても、手を離しちゃいけない。置いてきちゃいけない。離れてる時があっても忘れちゃいけない。捨てたら実現しても意味がない。

「絶対にそういう人では実現できないことを、そういう人のまま実現すること」で、なにか変えられるんじゃないかなって思うんだ。

今は、そういう感じ。また、いいことあるかな。
悲しいことは多いけど、僕は僕のやれることをがんばるよ。色々あると思うけど、一緒にがんばろう。

こんな僕に関わってくれた人、みんなありがとう。ごめんね。

皆さんに素敵な日々が1日でも多く続きますように。
情報と感情で創る景色、株式会社情景、どうぞよろしく。

村井 勘彌

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